山中 頼元(やまなか よりもと、? - 天正18年11月16日(1590年12月12日))は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。仮名は彦四郎、官途は大炊助と称した。父は山中頼次。祖父は山中氏頼。

略歴

後北条家の御馬廻衆寄親を務めた。妻は北条氏照の娘・霊照院殿。

永禄6年(1563年)を最後に父の頼次の動向が確認できないため、この頃までに家督を相続した可能性がある。頼元は永禄12年(1569年)に武田信玄が駿河侵攻を開始した際、駿河国に出陣して戦功を挙げ、同年閏5月には北条氏政から感状を与えられている。父と異なり、天正14年(1586年)の時点で独立した軍団を与えられており、小田原衆として配属されている。天正12年(1584年)10月には上野国小泉城に援軍として派遣されている。これらの重用は氏照の娘婿であったためと見られており、相模国溝上下に化粧料も与えられている。

天正18年(1590年)の小田原征伐には参加したと思われるが、具体的な活動は不明である。7月に氏政と氏照が自殺した後、わずか4ヵ月後に頼元も死亡している。法名は慈光院殿松岸永秀大居士。

脚注

参考文献

  • 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版・黒田基樹。2018年

元世界王者が握る「おにぎり」の味 山中竜也氏は午前3時までカウンターに|まいどなニュース

【新元号】有識者懇メンバー発表 山中教授ら9人 産経ニュース

【ソシオパスの典型】交際女性を壮絶な暴行で死に至らしめた山中元稀被告が懲役12年に不服。「社会復帰ができるとは思えない」 うちなータイムス

竹原の吉井家と頼家─垂加神道を支えた「浜旦那」 国を磨き、西洋近代を超える

小説 『頼山陽』