伊東 義五郎(いとう よしごろう、1858年6月26日(安政5年5月16日) - 1919年(大正8年)2月22日)は、明治期・大正前期の日本の海軍軍人、政治家。海軍中将正四位勲二等功三級男爵。
経歴
信濃国松代城下石切町に松代藩士・伊東賢治の四男として生まれる。藩校文武学校を経て、1872年9月、海軍兵学寮(5期)に入学。1877年西南戦争に従軍。1881年1月、海軍少尉任官。フランス・ドイツ差遣(1884-1888)、海軍参謀部第3課員、「高千穂」副長心得、海軍参謀部第2課員、常備艦隊参謀、「比叡」「大和」「葛城」の各副長、佐世保水雷隊司令、「高千穂」副長、海軍省軍務局第1課員などを歴任。1894年9月、海相秘書官となり西郷従道大臣に仕えた。日清戦争では西海艦隊参謀長として出征した。
さらに、海軍省主事、フランス公使館付、「敷島」艦長などを経て、1901年7月、海軍少将に進級。常備艦隊司令官、横須賀鎮守府艦政部長などを歴任し、日露戦争時は横須賀工廠長であった。1905年11月、海軍中将となり、竹敷要港部司令官、将官会議議員を務め、1909年5月、予備役に編入された。1918年5月16日、後備役となる。
1907年9月、男爵を叙爵し華族となる。1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に当選し、1919年の死去まで在任した。大日本石油鉱業(現・帝国石油)社長にも就任した。墓所は青山霊園。
栄典
- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正七位
- 1891年(明治24年)12月16日 - 従六位
- 1895年(明治28年)1月23日 - 正六位
- 1898年(明治31年)3月8日 - 従五位
- 1905年(明治38年)11月30日 - 従四位
- 1909年(明治42年)7月10日 - 正四位
- 勲章等
- 1892年(明治25年)5月28日 - 勲六等瑞宝章
- 1895年(明治28年)
- 9月27日 - 単光旭日章・功四級金鵄勲章
- 11月18日 - 明治二十七八年従軍記章
- 1901年(明治34年)11月30日 - 勲四等瑞宝章
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲三等瑞宝章
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章・功三級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵
- 外国勲章佩用允許
- 1895年(明治28年)10月18日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ
親族
- 妻 伊東満里子(1871-1945)- フランス海軍軍人テオドール・フラパース(Theodore Frappaz)の娘、フランス名マリー・ルイーズ・フラパース(Marie Louise Frappaz)。1888年に16歳で伊東と結婚。日本の軍人初の国際結婚。義五郎がフランス公使館付海軍大佐(1896-1900)として再滞仏の際には長女・次女・三女を連れ同行。
- 子供
- イザベル・ベルト・マリー桜子(1889年生)- 1909年にフランス海軍軍人 Marcel ROUVIER(1881-1920)と結婚、息子に Guy(1911-1995)。娘のMagali(1918-1995)はシェルブールの海事長を務めたフランス海軍軍人Pierre Bouillautの妻となった。
- シュザンヌ・マリー・アメリー不二子(1893年生-1986年没)- 武者小路公共(外交官)妻
- レネー・マリー清子(1895年生)- 本野盛一(外交官。本野一郎長男)妻
- ギー・イチ(1898年生)- パリ生まれの男児。日本の資料に義五郎の子は一男五女の記述あり、夭折等したか下記の義節と同一人物か。
- 義節(よしのり、1900年生-1976年没)- 男爵継承者。園芸・畜犬場「昭芳園」経営。娘4人あり。
- マルゲリート千代子(1902年生)- フランス海軍軍人 Emmanuel Andrieu d'ALBAS 1894-1969)妻。夫の d'ALBAS は東京のフランス大使館勤務経験があり、日本海軍の艦隊を解説した著作などもある。
- 文子(あやこ、1912年生)
- 孫 武者小路公秀、本野盛幸
脚注
参考文献
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。




