奥 重政(おく しげまさ)は、戦国時代から江戸時代初めにかけての武士。津田流・自由斎流の砲術家。
生涯
奥氏は紀伊国那賀郡荒川荘(安楽川荘、現在の和歌山県紀の川市桃山町・那賀郡粉河町)を拠点とした一族。15世紀初め頃には同荘の公文を務めていた。重政の父・義弘は小倉荘(岩出市・和歌山市)の津田算長の娘(津田算正の妹)を妻にしたとみられ、義弘は岳父から砲術を習ったとされている。
永禄3年(1560年)、重政は奥義弘の嫡男として誕生した。「奥家譜」によると、天正期(1573–1592年)に織田信長や羽柴秀吉と戦ったといい、「奥家系図抜書」や『紀伊続風土記』には、織田信長が高野山を攻めた際に、父・義弘と共に高野山に味方したと記されている。天正18年(1590年)に家督を継ぎ、文禄5年(1596年)、氏家行広に鉄砲組組頭として仕えた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、浪人となった。
重政は津田算正とその弟の自由斎から砲術を学び、数年で奥旨を窮めたという。『本朝武芸小伝』には、重政は自由斎の数少ない門人の一人で、砲術の奥義を神のように得たとあり、『武術流祖録』にも、重政は津田流の数少ない門人の中で傑出していたとある。また、津田流の砲術伝書のうち、「津田算長 - 算正 - 自由斎 - 重長」と伝えるものには重政の名がなく、自由斎から奥弥兵衛(重政)に継承したとするものには算正の名が見えないことから、重政は主に自由斎から学んだと考えられる。
重政は後の紀州藩主・浅野幸長に砲術を伝え、慶長4年(1599年)に自由斎流の秘伝を授けている。幸長以外の大名では谷衛友にも砲術を伝授した。このほか、美濃国多羅城主の関一政の家臣だった鹿伏兎盛良が門弟にいる。盛良は砲術の蘊蓄を極めて奥姓を許されたが、その後外科医学の道に進み、江戸幕府に直仕した。
慶長6年(1601年)、浅野幸長が甲斐から紀伊に転封された。重政は砲術を伝授したものの、幸長とは主従関係になかったとみられ、那賀郡野上荘原野村(海南市)に隠棲している。慶長17年(1612年)、重政は死去し、現在の紀の川市桃山町にある修禅尼寺に葬られた。
重政の嫡男・重吉は、浅野幸長が甲斐にいた頃に浅野家に仕官した。浅野家の「旧臣録」では、慶長5年(1600年)のこととされる。当初の石高は300石で、鉄砲組頭として従軍した大坂冬の陣で功を立て、800石に加増された。元和5年(1619年)に浅野長晟が安芸国に移されるとそれに従い、安芸で砲術を広めたという。江戸時代中期から幕末にかけての安芸の砲術家として奥猛雅・満雅・典雅・邦雅の一族が知られるが、重吉の子孫と考えられる。また、重政の二男・重俊は紀伊に残り、紀州奥家を存続させた。
系譜
- 父:奥義弘(1532–1590) - 奥延之の嫡男。
- 母:津田算長の娘
- 正室:小嶋与三の娘 - 与三は山口荘(和歌山市)の住人。
- 長男:奥重吉(?–1642) - 浅野家臣。芸州奥家の祖とされる。通称は清蔵、弥兵衛。
- 二男:奥重俊(1594–1663) - 紀伊に住む。通称は源太(郎)。大坂の陣の際、重政の叔父(延之の四男)の杢之助政友が大坂方にいたが、重俊は豊臣秀頼からの誘いを断ったという。この後、慶長20年(1615年)に政友は戦死している。なお、政友を重俊の弟とし、兄弟そろって大坂籠城に加わったという説もある。
- 三男:快賢 - 高野山の僧。
- 四男:奥吉政 - 浅野家臣。通称、仙兵衛。文化初年にまとめられた「旧臣録」では重政の二男とされる。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 太田宏一「津田流砲術と奥弥兵衛について」『和歌山市立博物館研究紀要』第19号、2005年。
- 太田宏一「津田流砲術と奥弥兵衛(続)」『和歌山市立博物館研究紀要』第25号、2010年。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』角川書店、1985年。ISBN 4-04-001300-X。
- 松平年一「自由斎流の鉄砲師奥弥兵衛」『日本歴史』第354号、1977年。
- 和歌山県史編さん委員会 編『和歌山県史 中世史料 一』和歌山県、1975年。全国書誌番号:73021652。




